オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFマンガの世界
森から戻ってきつつあります。
- 作者: 稲葉振一郎
- 出版社/メーカー: 太田出版
- 発売日: 2005/02/26
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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なに考えてんだ…長谷川裕一を評論してどうすんだよ。
前半、超ロングインタビューが掲載されているのだが、案の定まったく話が噛み合っていません。
長谷川裕一と言う人は1つのことしか考えてない。「スケールのでっかい活劇を描く」こと、この本の中で言ってる言葉を引けば「ドカーン!バリバリーン!」ということだ。だから著者がいくら時代や神の話を持ち出しても、技術論しか帰ってこない。
長谷川裕一作品に神が出てくるのって、一番でかくて、強くて、えらそーで、倒しがいがあるからってだけでしょ。
読んでるうちに長谷川裕一がかわいそうになってくる。大友克洋なんか持ち出しちゃって…*1。あとがきマンガで長谷川は対談について「(焼き肉が)おいしかった」と言っているのだが、まあそれしか言えないわな。
もちろん誤読の自由もあり、評論家たるものその上で独自の芸を見せてくれればそれでよく、評論の対象は素材にすぎないのだけど、素材の選び方も芸のうちとも言えるはずだ。マップスとブラッドミュージックで80年代−90年代初頭を語ろうなんて、む、り、あ、り、す、ぎ!
あったらやだなとおもってた言説も見つけてしまった。リプミラが自分の中に心を自覚したときの台詞を持ち上げるやり方ね。この本に限らず、あそこを抜き出して、マップスを語る文章をよく見かけるのだが…。たしかにあの部分は感動する。しかし、それをもってマップスを「美女ロボットの自己獲得の物語」としてしまうと激しく間違う気がする。「足で大気圏突入!」とか「惑星規模の首だけ宇宙人!」とか「地球が2つに割れました」とか、そっちにこそ作品の読みどころがあるんじゃないのか。で、その辺りから「スペオペも極めればワイドスクリーンバロックと呼ばれる」ことこそをメインテーマにするべきだったかも。しょーもないディテールに埋め尽くされた思索無きプロット群、しかしそれを10倍密度でやれば量が質に変じてくる。こういう作品、またそれを評価する気風はオタクからしか生まれない。帯に抜粋してある著者の意見表明は、こっちからなら実現できたはずだし、それは単なる長谷川裕一論を超えて普遍性を持ち得たはず。
なんか長谷川裕一のことを馬鹿にしているみたいに読めます? そうじゃないんです。神と偽の神を語るより、でっかいエンターテインメントを描ききる方が、高級な行為です(オタクの価値基準)。大ファンなんです。80年代を本当に楽しませてもらいました。
にしてもミルキィ・イソベさんの装丁すごいなあ。あの!長谷川裕一の!絵を使っておしゃれな本に仕立てるとは! もちろん正しくはないですが。