禅とオートバイ修理技術

禅とオートバイ修理技術〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)
禅とオートバイ修理技術〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)
禅とオートバイ修理技術〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)禅とオートバイ修理技術〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)


ハードカバーが出た頃、ぶっ飛んだタイトルで気になりつつ未読だった本。
ニュー・エイジってやつですか。全く周辺知識がないけど、とりあえず読んでみた。

理性と分析を旨とし、善悪を脇に置く「古典的価値観」と情緒と直感に耽溺する「ロマン的価値観」に我々が引き裂かれているということを、オートバイの旅でのエピソードから見事に看破する。日本語には便利な言葉があるんで、乱暴だけど「古典的」を「理系」、「ロマン的」を「文系」と言い換えちゃっていいだろう。
理系と文系の分離が現代の不幸を招いており、これを統合する価値があるんじゃないかという考えというか、渇望はよくわかる。オートバイの文系側面だけしか見ない、つまりバイクの旅を楽しむけど構造には興味なく、修理は人におまかせと言うのは逃避だ。また逆に、オートバイの本質のイメージを持たないまま理系的に修理すると、その作業は非人間的で醜悪なものになるし、実際修理がうまく行かない。オートバイ修理を通じてオートバイそのものの理解に進むのが正しく幸福なオートバイとの対峙の仕方だ。ただその「オートバイそのもの」ってなんなのよ、と言うところから、著者は「クオリティ」探求の旅に出る。

この探求は著者にとって初めてではなく、著者の前半生の人格「パイドロス」は、「クオリティ」を探求し続けた結果、心が壊れてしまい電気ショック療法*1の副作用で記憶を失う*2。本の著者「ナレーター」は記憶喪失後の別人格だ。ナレーターはパイドロスの軌跡を追い続け、ついにパイドロスの人格を取り戻すと共に理系と文系の融合した結果でなく、理系と文系に引き裂かれる以前の未分化な価値=クオリティを見いだす。このとき、旅の途中では全く噛み合っていなかった息子とはじめて心が通いあう。このラストシーンは結構感動的だ。クオリティを提唱しても、本人が不幸なら実践できてないじゃん*3、と思いながら読んでいたのだが、最後に見事に全てが結びあう。

というわけでとても面白かった。なにしろ読み物としてとても良くできていて、普通にエンターテイメントとして読めます。記憶を失った男がバイク旅行するってだけでわくわくするじゃないですか。でも…定義できない「クオリティ」=「いいもの」があると言い切るのは危険だと、やはり私は思ってしまいます。肌感覚ではそういうものがあるよねとも思うのだけど。「クオリティさえ取り戻せば政治なんかすごく簡単」みたいな文章があるんだけど、そーゆーのってファシズムに利用されるんじゃないの?

*1:実は電気ショック=ECT療法は現役の療法で、結構効きが良くて評判がいいらしい。今は麻酔もするので、けいれんも苦痛もないんだそうだ

*2:記憶喪失というより、乖離では? 記憶がないならここまで細かくパイドロスの行動を追えない気がする。しかし一方、文献の引用かパイドロスオリジナルの考えかわからなくなってる部分もあり、ちょっとよくわからない。

*3:普段本を読むとき、私は著者の人生や性格は脇において考慮に入れないのだが、この本ではまさにそういう古典的な姿勢が「悪である」と断じられているので、その態度は捨てました。